商号の由来
かねいちとは右にある山本勝之助商店の
商号です。
この商号は勝之助が商店を
継承する前の江戸時代から当家の屋号
として使われていました。
そのころは木蝋(ろうそく)の製造卸業を営んでおりました。カネイチの意味は、「かね」は大工道具の曲尺(かねざし)を形どり、角度を正し、まっすぐに筋を通すという店の器を表しています。「一」には、処世の心得として正直をモットーとして、人の道をふみ行うことを第一とせよ、という商売の姿勢がこめられています。
山本勝之助商店の生涯
創業者山本勝之助は文久2年(1862年)6月2日、和歌山県名草郡阪井村(現海南市)にて山本利兵衛の次男として生まれました。4歳の時に生母と死別、6歳で漢方医品川玄正師匠の塾(寺子屋)に学びます。19歳の若さで家業の木蝋製造業を継承しましたが、まもなく父利兵衛が病死して家運振るわず、先祖伝来の田畑、山林、別荘を手放して家屋敷のみとなる窮地に陥りました。しかし勝之助はそこから奮起し、当地和歌山の山椒や肉桂などの薬効に着目し薬種商への商売転換を決意します。独自の商法を編み出しこれが当たって販路拡大に成功し難関を切り抜けました。
さらに和歌山県野上地区で多く栽培されていた棕櫚(シュロ)に着目し、強くて耐水性のある縄製品を開発、全国に販売網をもとめ「手廻しせねば雨が降る」という経営訓を実践し事業を拡大していきました。勝之助は自らの繁盛だけでなく、「寄付事一切遠慮仕らず候」と店頭に掲げ、地元同業者、関係取引先との共存共栄にも心を配りました。 また、愛知県の農業指導者金原明善氏を私淑し、郷土への貢献に深い関心と努力を払い、「国家百年の計は山に木を植えるにしかず」と、儲けをはたいて国有林を買い上げ、紀州における植林・緑化活動の先駆けとなりました。植林のほかにも、学校や神社・寺院、道路、河川防水工事などに多くの私財を投じました。昭和に入っての晩年には、「手廻しせねば雨が降る」を広く世間に広めようと、これを書いたビラを作成し、地元はもとより全国津々浦々の旅館、車中や船中で配り歩きました。一方で多彩な趣味を有し、中でも浄瑠璃は青年時代に手ほどきを受けて以来、深く興味を持ち、生涯最大の楽しみとしました。自ら「天狗太夫」と称して謡い、一座を率いて各地で浄瑠璃会を催したほどです。東京出張の際には犬養毅氏、徳川頼倫氏などの当時の名だたる名士宅に赴い披露しました。昭和14年(1939年)10月、旅先の京都の旅館で倒れそのまま郷里に戻ることなく78年の生涯を閉じました。没後20年の昭和34年(1959年)、地域のみなさんはじめ多くの有志の方々の手によって勝之助の銅像が地元巽公民館に建てられました。
手廻しせねば雨が降る
“手廻しせねば雨が降る”の言葉 は、当店のいたるところに掲げられています。
会社であれば経営理念や経営信条にあたるものです。
これについて、勝之助は次のように言っています。
「雨」は自然現象であって我々の予期し得ないものである。雨が降れば急ぐ仕事の処理も不可能になる場合もあり、その結果約束も果たせず相手に多大の迷惑をかける上、自己の信用をなくすこととなる。凡そ商人は信用こそ最大の資本と言え、雨こそ商人には一大凶事であり死を意味するものである。商経営に当たる者は常時雨降る日のあることを強く念頭に置き、日々の仕事の計画を立てて段取りよく手廻しすることに心がけ、相手に対して違約による迷惑と不信を招かぬよう心することが商業道徳上の最大責務である
二枚のビラ
勝之助は晩年、2枚のビラを作りました。ビラ(栞)の発行は昭和3年(1928年)、わが国が昭和の新時代を迎え、昭和天皇即位の大典を国を挙げて祝った年のことです。勝之助はこのとき67才、大典を記念して余世の事業を思い立ち、社会教化のためにと「貯金の栞」「成功不成功の礎」を作成し夫々20万部を私費を投じ印刷、全国の市町村役場、学校および神社仏閣に配布しました。
貯金の栞
「塵も積もれば山となる」、わずか1円を元金として年利5分の複利計算で10年、20年百年、千年後の元利合計を計算した場合、実に巨額に達することを表しています。勝之助は世の中の人々に貯金の力の偉大さと、零細なる金もばかにできないという2つの教訓を具体的に示して、金銭に対する自覚を促したとのことです。
「成功する人・成功せぬ人」
勝之助は、世間に一人でも多く勤勉で正直な人の出現を祈り、また皆が繁昌することを熱望しました。このビラは、自身の人生修業や商道の高揚に、不断の「照願脚下」の戒めとして実行していた処世訓をまとめたものです。「手廻しせねば雨が降る」を第一とし、万人にも身近で適切と思われる約80句を挙げています。この2つのビラを、商用の出張に際しても取引先の商家は勿論、その往復の車中や船中の乗客一人ひとりにも手渡して印刷物の趣旨を述べ、趣旨に共鳴しその実行をするようお願いして廻りました。この奇行は人心に与えるところがあったのか、各地から次々とこの印刷物の贈与依頼の書状が後を断たない状況になったそうで、書状の受付と印刷物発送のため係1名を新たに雇い入れるほどでした。
車中の精励爺さん
この頃の翁の動静を伝えている昭和14年(1939年)8月6日発行(第36巻第7号)週間朝日8月増大号、杉村武記者による「村から村へ(銃後ルポルタージュ)」“車中の精励爺さん”と題した記事の書き写しが残っており、以下に紹介します。
「これ上げますよって、読んでみなはれ」雑誌を読んでいた私の鼻の先へ何やら印刷したビラを突きつけた老人がいる。さっきから車内の誰彼なしに紙切れを配っては歩いていた、色の白い上品な顔に頭巾を被った老人だ。車内の物売りだろう位に決めていた私は、いざ自分にも突きつけられてみると知らん顔をしているわけにはいかぬ。ビラと老人の顔をチラチラ見比べている眼に“御大典記念”の五字が映った。さては、一種のファナチックかなと思って更にビラを見ると、この老人の筆跡ででもあろう“手廻しせねば雨が降る”と大きく印刷してある。思わず「お爺さんこれは何ですか」と訊いた「ほんならこっちゃのをもう一枚あげますよって、まあ読んでみなはれ」とその老人は黒い手編みの手提げ袋から別の細長いビラを一枚出してくれた。こうなっては仰せに従うのほかはない“求めよさらば与えられん”というようなわけで金を儲ける秘訣、成功の秘訣はつまり「手廻しせねば雨が降る」ということであるらしい。確かめたら老人はそうだとうなずいた。何というても貯金する人最後は勝利又国強しというようなことから、もう一枚の方には、成功する人はどういう人、成功せぬ人はどういう人というのを三、四十項目づつ書き並べている。そして「只一二ヶ条ニテモ修身実行スレバ成功疑ナシ」どころか正に聖者であろと思われる。・・・語るこの昭和三年来の“精励爺さん”は和歌山県海草郡巽村の山本勝之助老で、文久二年の生まれ、鶴のように華奢だが、今日もケシぼうずを買出しに行く途中とかで元気なものである。由来海草郡那賀の両郡は漁具用棕櫚縄の生産では明治初年来有名な所で、年産百六十万円に上り有力な農家の副業となっている。山本老が“手廻し”して当てたのもこれであった。事変になって軍需方面にもはけるので棕櫚縄の値は騰がったし、遊んで暮らせる楽隠居の身分ではあるが、ビラを配りながら寸暇を惜しんで飛び廻っている。
・・・以下略
祖父の思い出
祖父が亡くなったのは確か私が中学校二年の夏の終わり頃であった。どの様な人柄であり、どんな考え方を持っていたのか、私には判らない。せめて私が二十才になるまで生きて居て貰いたかった様な気がする。今思い出しても只無闇に口喧く叱言を言う人であったという印象だけである。ある日私は何に使ったのか知らないが、鎌を使って其の場に置きっ放してあった所、ガミガミ小言を言われ、使用した道具は必ず元の場所に直して置く様教えられた。祖父に叱られた事で一番先に思い出すのは此の事であるから相当ひどく叱られたらしい。小学校の二年生の頃であったろうか、「重根(しこね)の山を見廻りに行くからついて来い」と言われた。只後に従って行けば良いのかと思っていると、「餅を弁当代わりに持って行くのだ」と言う。餅と砂糖を少し入れた風呂敷包みを手に提げて行こうとすると、「手に提げたのでは駄目だ、風呂敷包みをぐるぐる巻きにして其の両端を肩に廻してかつぐのだ」と言う。風呂敷が小さかったものだから、肩に廻すと肩に乗らないで首の直ぐ後ろにチョコンと餅の包みが乗って、まるで犬が少し大きめの首輪をはめた様な珍妙な格好になった。「こんな格好では厭だ」と言ったが許してくれないので、其のまましぶしぶついて行ったことを憶えている。山の中に入ってから、あちこち歩き廻ったが、祖父が何を話したかは全然憶えていない。谷川の傍らで餅を焼いて喰ったが、醤油が無くて砂糖だけでも結構美味しかった事を憶えている。相撲見物に連れて行って貰った事が二度あるから、祖父は相当相撲が好きであったらしい。勿論田舎の事であるから本場所の相撲ではなくて、神社の祭礼の奉納相撲とか青年団の相撲であったが、本場所の幕下くずれであったろうか、伸ばした髪をまげに結わないでくずしたままになっている力士が数名いて滅法強かった事を憶えている。祖父は祝儀袋の様な紙包を時々出して勝力士に行事を通じて渡していた。祖父の思い出として際立った事は何もない。口喧しく叱りつける人ではあったが、幾ら叱られても後味が非常に爽やかであった。小学校何年生の頃であったろうか。離れになっている隠居所の窓際から見える倉の写生を言附けられた。クレヨンを持って画いている傍らで、祖父は晩い昼食を取り乍ら祖母と顔を見合わせてはニコニコと笑い乍ら見ていた。大してうまくも画けていない未完成の画を取り上げては上手だ上手だと長い間ニタニタしているので少し気味が悪かった事を憶えている。又或る時、商売とはどんな事かと聞くので、「九拾銭で買ったものを一円位で売るのが商業でしょう」と答えると、「決してそんなものではない」と言う。「かねいちは一体どんな事を商売と言うのですか」と訊くと、ニコニコ笑って、「今に判る」と言って教えて貰えなかったのは、子供心にも非常に残念であった。今訊こうにも、もう其の人はいない。
昭和三十六年十二月 山本有造 (第三代当主)