江戸時代以前 | 1870年代以前 | の商号にて当地において長く木蝋製造業を営む。(事業開始時期不詳) |
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明治13年 | 1880年 | 山本勝之助が18歳で家業を継承、事業を山産物問屋に転換し、 「山本勝之助商店」を創業。 |
明治19年 | 1886年 | 越中(富山)の薬種業過の豪商中田清兵衛との取引開始 薬種問屋を開拓。 |
明治20年代 | 1887年代 | 野上谷地方の特産物であった棕櫚縄の販売開始。 紀州野上産の上質で堅牢な棕櫚縄網が船舶用網、 漁網用網の最適品として認められ、全国へと販路を拡大。 |
明治23年 | 1890年 | 社会貢献活動開始。 道路、鉄道、港湾、通信施設等の社会インフラ施設費寄付 ・震災、風水害被災地域への物資・義援金寄付 ・疫病、障がい者等の救援資金援助、戦没者遺族扶助資金 ・神社、仏閣、学校施設等への土地、施設等奉賛 ・植林、造林事業推進活動および寄進 |
明治30年代 | 1900年代 | 同業者の便益と産業の発展のため「紀州棕櫚東京積組合中間」を結成。 代金後払いの信用取引(掛売)を開始。 |
明治39年 | 1906年 | 紀州内陸地の角間木地区(現有田郡美山村)の植林開始。 |
明治40年代 | 1900~1910年代 | 棕櫚原料の不足を補うため中国産の製毛「唐棕櫚」の輸入開始 山椒、山桃、白桃、肉桂、富有柿、月桂樹の採植普及に投資。 |
大正元年 | 1912年 | 紀州内陸地の角間木地区(現有田郡美山村)の植林完成。 |
大正2年 | 1913年 | 棕櫚産業流通拡大のため「野上軽便鉄道」(後の野上電気鉄道)が開通。 |
大正初期 | 1910年代 | 大阪・中山鉄工所より技師を招聘し、独自の足ふみ式棕櫚製縄機 「国益機械網縄機」を開発。 |
大正6年 | 1917年 | 「足踏式三子縄製縄機」を考案 |
大正中期 | 1920年代 | 国産・中国産の棕櫚原料不足を補うため、インド、セイロン(現スリランカ) より、パーム(椰子の実外皮繊維)の輸入開始。 |
昭和3年 | 1928年 | 社会教化にと「貯金の栞」「成功不成功の礎」各々20万部を全国の 市町村、学校、神社仏閣等に配布。 |
昭和6年 | 1931年 | 山本金助(2代目)が家業継承 |
昭和14年 | 1939年 | 山本勝之助死去(享年78) |
昭和34年 | 1959年 | 地元有志の皆様により巽公民館前広場に勝之助胸像が建立される |
昭和30年代~ | 1950年代以降 | 戦後、ナイロン、ビニール、テトロンの順に安価な石油化学繊維が登場し 台所用品の主役であった「棕櫚束子」はスポンジにその座を譲ることになる。 また、電気掃除機」が普及し「棕櫚の座敷帚」は掃除具の脇役に転じる。 伝統的な地域産業が次第に衰退、当店も年々事業縮小を余儀なくされる。 山本金助が第三代野上電気鉄道社長に就任。 これを機に山本有造(3代目)が家業継承。 |
昭和60年 | 1985年 | 山本金助死去。 |
平成6年 | 1994年 | 野上電気鉄道廃線 |
平成18年 | 2006年 | 山本有造死去、三姉妹が家業継承 |
令和2年 | 2020年 | 法人化、株式会社山本勝之助商店へ |